自分の常識を疑う
おはようございます。東京・練馬の税理士、村田龍矢です。
今日は、自分の常識について。
○○するのが当たり前だろ!
それを「常識」と呼びます。
法律・・・までは行かないものの、なんとなく当たり前にルールみたいになっているもの。
例えば、「5分前行動」。
集合時刻の5分前に現地で待機しているように、ということだったり、
授業開始前の5分前には自席で着席しているように、だったり、
何らかの行動開始時間の5分前には準備が終わっている状態のことを指すと思われます。
この行動は、色んな意味合いがあって求められているのでしょうが、
私個人としては余裕を持った行動をしましょう、くらいな意味だと解釈しています。
何でもギリギリに行動していると、突発的なトラブルにあったときに対応できませんしね。
これは、私の中では「常識」になっています。
というのも、前職時代に新人研修中に、相当やかましく言われておりまして・・・。
これができていない場合は、キレられましたね笑
学生時代も、別にルーズという訳ではなかったと思いますが、
そのうち行動が染み付いてきたのか、自分の中では5分前の行動が常識となっていったのでした。
自分の常識と相手の常識が違うのは「常識」である
で、冒頭の文章。
自分の常識が全世界の常識だと思っている方がたまにいますね。
それを言う相手が自分より弱い立場の方だと余計に出てしまうのです。
私の「5分前行動」の場合ですが、別にそれを相手に求めたりしません。
私はあくまで、5分前に集合場所に到着するようにしていますが、待ち合わせの相手がギリギリに到着したところで、別に怒りはしません。
そもそも、本当に現地にギリギリ到着したのか、もっと前に到着していてカフェで時間をつぶしでもしていたのか、
それはわかりませんからね。
それに例え、ギリギリの現地入りだったとしても、
「この人は人生にスリルを求めているんだな」としか思いません笑
一歩間違えたら遅刻確定な時間に行動開始とか、怖くてできません。
自分の常識が絶対だと思って、それに反する他人にネガティブな感情を持ってしまう。
それが高じて、クレーム、𠮟責につながってしまう。
最近だと、パワハラとかカスハラとか言うようですが、根元にはこんな感情の動きがあるんではないでしょうか。
常識って、自分の世界観に関することなので、それと違う行動を取られるとザワザワするのです。
自分の世界を壊されるような、恐怖を感じるのかもしれません。
常識は相対的なものである
私には私の常識があり、
相手には相手の常識がある。
それだけの話です。
それを、人間関係はどうしても立場の上下とか出てきますから、自分の常識に合わせろよ、となってしまうのです。
相手からすれば、こちらの方が非常識かもしれないのに。
というように、常識とは所詮は各人ごとに違うもの。
お互い常識が違うところ、なんとなくうまく調整したりやりすごしながら生活をしているのです。
でも、どうしても許せないくらい常識が違う相手が出た場合、どうするのか。
行動としては2つ。
まず、自分の常識を疑う。なんで、自分はそんなことにこだわってるの?と。ここで、自分の常識を疑うことができれば、
「まぁ、いいじゃない」と相手の行動を許容できるかもしれません。
疑ってみたけど、やっぱり自分の常識が正しいと思ってしまった場合。相手のことを宇宙人だと思って、その相手とは距離を置くしかないでしょうね。
そして間違っても、相手の非常識を正そうなどとは思わないこと。
相手にとって、ありがた迷惑ですから。
別に、無理にかかわらない方が、お互いにとって幸せでしょう。
冷たいように思いますか?
でも、相手の行動を自分の期待するように自在に変えることができるなんて、その思いの方がよほど傲慢だと、私は思います。
先ほども言いました通り。
私には私の常識があり、
相手には相手の常識がある。
交わらないのであれば、それは仕方ない。
それくらい淡々としていたほうが、生きやすいのかもしれません。
【編集後記】
昨日は朝一のブログ更新。
午後からはeLtaxに苦戦・・・。etaxと設計思想が違いすぎやろ、と。

